からゆきさんのふるさと

島原紀行

島原の子守唄は、からゆきさんの鎮魂の唄か・・・・
島原には、からゆきさんの寄進による天如塔(理性院太師堂)があった。

はじめに

私は以前から島原、天草地方に関心があった。ボルネオ島の日本人墓地
を調査すると、からゆきさんの大半が島原、天草の出身者だったからである。
島原よりもボルネオの方が身近に感じていたためか、なかなか訪れる機会が
無かった。2002年3月、小閑を得て島原行きを決行した。現地では郷土史家
の方々や、古書店主の方との交流もあり楽しくも実り多い旅行であった。


島原の子守唄と宮崎康平

「おどみゃ 島原の・・・」の歌詞で始まる島原の子守唄をご存知の方は多い
と思う。作詞作曲者は宮崎康平とされているが、郷土史家の指摘によると元となる
メロディーがあり、それに宮崎が詞を付けたようである。宮崎は早稲田大学出身の
作家で、ベストセラーとなった『まぼろしの邪馬台国』の著者である。

この島原の子守唄は出来た頃は、地元では不評だったようである。からゆきさん
のことは、タブー視されていたからである。歌詞は次のようである。


島原の子守唄
一番
おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
ナシの木 育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
鬼の池の久助どんの連れん来らるばい
二番
帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばらや じゃけんど
唐芋飯や 粟ん飯 唐芋飯や 粟ん飯

黄金飯ばよ ショウカイナ
嫁ごん 紅な 誰がくれた
唇つけたなら 暖たろ
三番
姉しゃんな何処行たろかい 姉しゃんな何処行たろかい
青煙突のバッタンフール
唐は何処ん在所 唐は何処ん在所
海の涯ばよ ショウカイナ
泣くもんな がねかむ オロロンバイ
あめ型 買うて 引張らしょ
四番
あん人たあーちゃ 二個も あん人たあーちゃ 二個も
純金の指輪はめとらす
金な何処ん金 金な何処ん金
唐金 げなばい
 ショウカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ

島原の子守唄 歌意
一番
私は島原の貧しい家の育ちです。
貧しい家の私には恋愛などする暇はありません。
泣かないで早く眠っておくれ。
眠らないと鬼の池(口之津対岸の天草の鬼池港)の
人買いの久助(創作上の人物)どんが連れに来ますよ。
二番
帰りには寄っておくれよ、
貧しいあばら家で白飯は出せんけれど。
粟飯に芋が混じった黄金飯ならありますよ。
嫁がつけていた口紅は誰がくれたのだろう。
火のような赤い紅、唇につけたら熱かろう。
三番
姉さんは何処に行ったんだろう、
青煙突のバッタンフール(英国の石炭運搬船)に乗せられて。
唐(外国の総称)のどこあたりだろう 海の果てだろうか。 
泣く子には蟹が挟みに来るよ。
大人しく寝る子には 太い飴ん棒を買ってあげるよ。
四番
あの人たちは二個も、
分厚い金の指輪をはめてるよ。
あの金はどこの金だろうか。
唐から持って帰った金だそうだ。

島原の子守唄には子守りの少女の、
外国に行くとあんなにお金儲けが出来る
のだろうかという羨望の気持ちと、
からゆきさんを蔑む気持ちが重なっている。
作者宮崎康平は、人生半ばにして過労により
失明し、幼い我が子をあやすために、この
子守唄を作ったと言われている。

島原の太師堂

島原の太師堂にはからゆきさんの海外からの
寄進により建てられた天如塔があった。

天如塔

天如塔とは天竺の如来の集まるところいった意味

からゆきさん関係者の名前、寄進額、場所が刻まれた玉垣。

この島原の太師堂とからゆきさんに関しては
倉橋正直『島原のからゆきさん-奇僧広田言証と大師堂-』
共栄書房・1993年1月25日発行がある。

口之津の歴史民俗資料館・海の資料館

口之津は明治大正期、三井三池炭坑の石炭の海外積み出し港として
栄えた。その陰では、石炭運搬船に乗せられて密航して行く娘たちがいた。
島原の子守唄に歌われている「青煙突のバッタンフール」はバターフィールという
イギリス海運会社の名前が訛ったもので、外国船のことをバッタンフールと呼ぶように
なったようである。この資料館には「からゆきさん」のコーナーがある。


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